はじめに
 
 この連載の目的は,法学者,裁判官,検察官や弁護士といったいわゆる法律家と呼ばれる人々が日々仕事で用いている「法的思考」の内容を,一般の皆様にもできる限り分かりやすく説明することにより,これが,法律の問題だけでなく,もっと広く,社会問題や仕事上の問題を,理解したり解決したりする際にも役立つ潜在力を持っているのだということを,実感していただくことにあります。
 
 これまで,法律家は,その思考技術や理論を世の中の一般事象に応用するという観点から,一般の読み手に噛み砕いて開陳する実践が,他分野の専門家に比べて相対的に少なかったように思います。書店やウエブ上にある書籍コーナーを覗いてみても,例えば,同じ社会科学の実学に属する経済学の分野では,経済学を専門に学ぶ学生や研究者向けの専門書だけではなく,経済学の基礎的理論や思考方法を駆使して,日常世界を鮮やかに切ってみせる一般的な書籍が並びます。目についたものを挙げるだけでも,『経済的思考のセンス』(大竹文雄,中央公論新社),『経済学思考の技術』(飯田泰之,ダイヤモンド社),『ダメな議論』(同,筑摩書房),『日常生活を経済学する』(デイビッド・フリードマン,日本経済新聞社),『ランチタイムの経済学』(スティーヴン・ランズバーグ,日本経済新聞社)等々。他方,法律分野の一般読者向けとしては,特定の訴訟事件とか法制度の課題を掘り下げたドキュメンタリータッチのものやハウツー本が多く,これらは,学ぶところの多い良質なルポルタージュや実戦指南書ではあっても,法的思考の技術を使って世界に分け入るという狙いに出たものは少ないように見受けられます(例外的には,木山泰嗣弁護士や荘司雅彦弁護士による著作,『手ごわい頭脳』(コリン・P.A.ジョーンズ,新潮社)などがあります。)。

 法律家が,たとえば経済学分野で見られる上述のような著書,つまり基礎理論や固有の観点から,必ずしも法律とは関連のない社会問題や日常世界の話題を捌くような著書を,これまであまり多くは書いてこなかった理由には,次のような背景があるのではないかと思います。すなわち,法律理論を用いた解説を著すためには,その前提として,著書の中でそれら法律理論について解説を施すことが必要になってくるわけですが,これらをきちんと伝わるように説明すること自体が,とても難しい。体得するために何年も費やさなければならないような専門の理論や知識(大学の法学部で勉強して,さらに法科大学院でも勉強して,何年もかかって司法試験にパスしなければ体得できないような代物です。)を,簡単にお手軽に説明してのけるという芸当は,誰にでもできることではない至難の業です。そして,体得するために非常な苦労を要するからこそ,どこかそれらは,法律問題には係るけれども,身の回りの出来事とは遊離した概念であるとの印象を,法律家も,そして法律家でない人たちも抱いてしまっているのではないかと思うのです。けれども,難しいのは経済学の理論とて同じことですし,説明方法を工夫することによって,分かりやすいものに仕立て上げることは可能ではないでしょうか。また,法律の基礎理論といっても,憲法や民法や刑法といった個別の法律を解釈するために必要とされる特別のものだけではなく,もっと広く,法律一般を解釈し,これを利用する際に拠って立つ原理とか指針のようなものがあるのではないでしょうか。個別法の理論ではなく,こちらの,より一般的な理論であれば,訴訟事件などの法律問題だけでなく,より広い世の中や日常の一般事象に応用可能ではないでしょうか。

 私は,この連載の中で,個別の法律の理論や知識をご説明するのではなく,今申し上げたような,もっぱら一般的な点を中心にご説明を加えていきます。より一般的な理論や思考方法を対象にしますので,この連載は,どちらかといえば,法律の分野というよりも,論理学や(やや難しく言えば)哲学の範疇に属するようなものになるかも知れません。ただし,話が抽象的になりすぎないよう,なるべく具体例を用いてお話を進めていきたいと考えています。また,一旦ウエブ上にアップしたものでも,大いに加筆修正していくつもりですし,考えが誤っていたと判断したら,臆面もなく(!)取り下げることもあります。そして,ありきたりの解説や教科書を踏襲したような平板な内容ではなく,ごつごつした,独自性の湧き出るようなものにして行けたらいいなと考えています。それが成功するかどうかは,私の努力に掛かっています。

 私は,大学を卒業していきなり弁護士になった者ではなく,20年に満たない期間ではあるものの会社でサラリーマン生活を送り,その従事内容も法律とはさほど関係のない管理会計でしたし,また,そもそも,大学の学部も法学部ではありませんでした。したがって,大学で法律を専攻なさった多くの純法律家に比べると,法的思考に馴染むまでに時間がかかった分,それだけ,法的思考の特徴に敏感になったと言えるのではないかと考えています。そこで,僭越ながら,弁護士として,あるいはその前段階の法科大学院生として学んだこと,感じたことを基に,また,ときに弁護士以前の職業人としての経験をも参考にしながら,法的思考についてご説明していきたいと思います。そして,この連載記事が,皆様の世界を見る観点に,少しでも新しい切り口をご提供できましたら,望外の幸せです。